隆照寺 本堂

 

隆照寺の本堂は、京成本線「堀切菖蒲園駅」より歩いて10分ほどの距離にあります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜隆照寺の縁起〜

 

国土地理院の電子地形図(タイル)に大徳山と本願寺を追記して掲載

 

 

隆照寺は、兵庫県養父市 西願寺門徒の小柴家に生まれた隆信を開基とする。山号でもある大徳山は但馬における熊野信仰の中心で、但馬高野とも称されていた。この山は満福寺によって総ねられ、西願寺もその枝末にあった。大徳山は勧進聖や修験道の往来が隆盛であったが、豊臣秀吉の但馬征討によって広大な寺領を没収されてしまう。西願寺はその後、たびたび火災に見舞われて堂宇を焼失し、対岸の山へ遷ってから宗旨を浄土真宗へと改めた。

 

 『養父町史 第三巻 民俗編』(平成6年,養父町)によると「西願寺はもともとは真言宗の寺で、満福寺の下、坂本鉱山の建物が建っていたあたりにあった。しかし宝暦年間(一七五一〜六四)に火災に遭い、十二所村古屋敷に移った。ついで天保年間(一八三〇〜四四)、再び火災に遭った。前回のときは本尊、過去帳など重要器物・文献を持ち出すことができたが、次回のときはこれがかなわず、すべてを焼失してしまった。その次回の火事のとき、対岸の山斜面に、スポットライトをあてたように円形の光がさし当たり、仏さまの光かがやく顔がうつった。この奇瑞をよろこび、西願寺の復興にあたっては川向こうの地を選んでそこに再建し、山号をも仏光山と改めたのであった。今でも西願寺裏の谷は仏面谷と呼ばれている。現在の本堂は昭和二十五年に建築にとりかかり、昭和二十七年に完成したものである。」と、縁起が記されている。

 

 隆照寺 初代 隆信は1910(明治43)年生。 日本大学を卒業、本願寺で得度し僧籍を得る。1935(昭和10)年に布教使の任用を受け、葛飾区小谷野町に念仏道場を結ぶ。児童教化を期して幼稚園を併設し、1945(昭和20)年には東京都より非法人寺院として承認される。1949(昭和24)年には、現在の本堂が立つ堀切の地とへ寺基を遷す。その後1952(昭和27)年に法人設立の許可を受けて宗教法人 隆照寺となる。戦後間もなくの混乱もあってか、親鸞聖人700回大遠忌法要【1961(昭和36)年】を前後して宗派との包括関係を離れる。やがて千葉県佐倉市に広大な墓地を求めて間もなく、1968(昭和43)年4月22日を以て往生。

 

 第二代 正照は1947(昭和22)年生。初代の遺志を嗣ぎ、1968(昭和43)年には法人の代表役員へ就任。1970(昭和45)年、本願寺23世 勝如門主のお剃刀を賜り度牒を拝受、1974(昭和49)年には教師を授かる。その後、先代の遺した墓地を整備して拡充を図る。葛飾区堀切の地では隆照幼稚園 園長として、仏教を根幹とした幼児教育に取り組み、保護司としても更生保護活動に従事、社会貢献を通して仏恩報謝を実践する。

 2010(平成22)年には組内寺院および東京教区有縁の協力を得、改めて宗派との包括関係を設定することがかなう。現在は、三代 隆幸が住職を務める。

 

 住職 小柴隆幸

1985(昭和60)年生

2007(平成19)年 度牒拝受

2014(平成26)年 住職継承

 

 

 

 

 

 

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